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2015年01月04日

極私的沖縄音楽回顧1/2006年〜2007年

琉球新報に2001年から音楽回顧の記事を書かせてもらっています。
一年に一度の非常に個人的な視点での年間レビュー。2006年から2014年の原稿を順次アップしていきます。
※2001年〜2005年の原稿は使っていたアプリケーションの問題で開くことができません。

◎2006年

極私的沖縄音楽回顧1/2006年〜2007年
比屋定篤子@沖縄コンベンションセンター 2006年12月

 コザの街を歩く。歩道橋が取り払われた胡屋十字路のそばでは、巨大な「音市場」の建設が急ピッチで進む。すぐ横のゲート通りには、夜の闇とともに熱を帯びるライブハウスがほぼ昔のまま軒を連ねる。来年夏「音市場」がオープンしたら、通りにはさらに多くの音楽があふれ出すのだろうか…。

 ジャンルという垣根を越えて様々に彩られた沖縄の音楽は、昔からとても魅力的だった。しかし、それが産業として認知され、街づくりの核として根づくようになったのは、ここ数年。沖縄発のヒット作が続々と生まれ、本土のメーカーやプロダクションが目を向けるようになった時期と重なる。

 この欄を最初に書かせてもらったのは、5年前、2001年のことだ。テレビドラマ「ちゅらさん」が放映され、キロロの「BEST FRIEND」が大ヒット。モンゴル800はアルバム「メッセージ」で大ブレイクした。ビギンの「島人ぬ宝」は、まだリリース前で、オレンジレンジのブレイクは2003年まで待たなくてはならない。

 わずか5年前の出来事を、遠い過去のことに感じるのは、現実に流れる時間の速度より沖縄の音楽業界をめぐる速度が早い印象があるからだと思う。ここ数年、次々と新たな才能が芽を出すという、目まぐるしい新陳代謝の繰り返しが、沖縄の音楽を新たな産業へと螺旋状に押し上げてきた。まず音楽的に豊かな土壌があって、ヒットをきっかけに巨大な資本や人材が流れ込むという図式。それはまさに経済の法則にのっとったやり方で、雰囲気的にはリゾート開発にも近い。

 2006年、今年も多くの沖縄のアーティストが音楽シーンを賑わせた。新しい才能もキャリアを重ねたアーティストも積極的に作品を発表し、数多くのコンサートを行った。シーンを眺めていて漠然と感じたのは、沖縄の音楽の二極化だ。産業として成熟していけば自然に生じることだと思うが、セールスの多寡で才能や表現を区別することがあってはならないし、したくもない。

 そうした中で、「音市場」の出現はとても象徴的だ。音楽表現を自由に発信していく場として、新しい施設だけでなく街そのものが新たに機能を始めれば、また沖縄の音楽に新たな可能性が芽生えるのではないかと思う。

 2007年、ジャンルやセールス、新旧を越えて、さまざまな音楽が共存していける道筋が見えてくることに期待したい。


◎2007年

極私的沖縄音楽回顧1/2006年〜2007年
 おそらく2007年は個人的にもひとつの転機になった年でした。

 個人的に2007年を振り返ると、音楽とそれを取り巻く人々との不思議なつながりに彩られた一年であった。

 2月、宮城県白石市の「カフェミルトン」という音楽を愛する小さな店へのオマージュを捧げるライブを那覇で行った。この店で作られた一枚のCDがもたらした縁もあり、新良幸人や下地勇、大塚まさじと沢知恵というアーティストが沖縄へ集った。

 長野県在住のシンガーソングライターのタテタカコに誘われて、青森県弘前市に出かけた6月。沖縄で話した妄想が「荒野のアサイラム(避難所)」というイベントとして転がり、10月の那覇で実現した。

 白石と弘前、沖縄、その結び目にはロックバンド、ヒートウェイブの山口洋がいた。全国を一人で歌い歩いていた彼は、CDの製作、リリースからライブ活動に至るまで、事務所やレコード会社に頼らず、徹底したインディペンデントな方法を貫いていた。

 「セールスの多寡で才能や表現を区別することなく、ジャンルやセールス、新旧を越えて、さまざまな音楽が共存していける道筋が見えてくることに期待したい」。昨年、この欄の締めくくりにそんなことを書いた。

 音楽産業でも社会の状況を反映してか、二極化の波は着実に進んでいるように感じる。多くの制作費と宣伝費をかけて作られる大手メーカーの作品と、最低限の予算で制作されるインディーズ作品。作品作りに莫大な制作費と宣伝費を使い、大規模なコンサートツアーを行えるアーティストは、おそらく一握り以下。その輝きを保っていくのはさらに難しいことだ。

 メガヒットを否定するわけではない。しかし、それが夢物語のような現実の中で、細々と音楽と人をつなぐ作業というのは、巨大な産業に対するささやかな抵抗に過ぎないのかもしれないが、無駄なことだとは思わない。

 アメリカで、大手のCD販売店チェーンの店舗がなくなるときいたのは、今年のはじめのことだった。年末、東京、渋谷の大手外資系CDショップの人影もまばらだった。インターネットを通じた音楽配信による音源販売の影響があることは明らかだった。

 十二月、那覇でアコーディオンを手に歌う中山うりのライブ。目まぐるしい旅の一年を締めくくるのに、彼女の音楽はぴったりだった。「今、必要とされている音楽がどこにあるのか?」と考えた時に、「ライブ」だと改めて思えた瞬間だった。デビュー当初、彼女はダウンロード数の多さから「配信の女王」と呼ばれた。しかし、彼女の音楽がよりリアルに響くのはパソコンの上よりもライブの会場だったのだ。

 石垣島で話をした山口洋は、「火を絶やさずに、とにかく続けていくこと」と、クラッシュの故ジョー・ストラマーに言われたという言葉を繰り返した。とりあえず止めさえしなければ次がある。細々とでも続けていくということは、荒地のような現代を生き延びる上での基本的な姿勢とも重なる。

 2008年、音楽をとりまく状況はさらにシビアになるだろう。しかし、ほんの少しの知恵とユーモア、そしてとにかく続けていくという意思があれば、音楽の火が消えることはないと思う。

(続く)

Posted by harvestfarm at 21:48│Comments(0)
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